宮古島ドットコムの連載企画
「宮古島はちゃめちゃ移住計画」


vol.001 2月20日 「さようなら。我が家。」


「お母さん、会社をたたんで宮古島に行くぞ」ちらっと、夫が言った。

「うそー!ホント?何で急に?」そう言いながら心の中はどきどき、わくわくした。


伊良部島にて

週末には、いつも専属で歌っている海の見えるホテルまで夫が送ってくれる。サーフィンのメッカである海岸通りを走りながら本当にさらっと言ってのけたのである。

ずっと、二人の夢だった宮古島移住だったが、あまりにも簡単に言ったことに驚いた。

次女が大学を卒業するまでは、静岡にいなければ、仕事を続けなければ無利だ。と、常日頃言っていたのは彼だった。わたしは、「高校を卒業したら家にいなくなるんだからいいじゃないの?」と、説得していたのだが「まだまだ金がかかるし、俺も、従業員のことを考えたら自分だけ宮古島には行けない。いきたければお前だけ先に行けよ。」そう言っていたのはつい最近。「どうしたの?何かあったの?」聞きながら少し不安がよぎった。会社の経営が上手くいっていないのか・・・・。「ずっと、考えていたことなんだがこのまま会社をやっていても、上向きにはならない。今はいいけど来年、再来年のことを考えると、今たたんだほうがみんなのためにいいかも知れん。退職金もちゃんと出せるし、年をとって泳げなくなってから宮古島にいっても、楽しくないし、友達作りも今の年齢ならできると思うんだ。これからは今までのような生活はできなくなるけど思い切って宮古w)島に行かないか?」「うん。行こう。うれしい。」楽屋でこんな会話をしながら私たちは何度も心の中を確認しあった。そのこととは別に他にも今の土地から離れたいという思いも重なり事はとんとん拍子に進んでいくように思えた・・・・・夏が終わろうとしていた。

しかし、いざ会社を閉めるには大変なことがいくつもあった。今の従業員の就職の斡旋。重機などの処分販売。税理士、会計士、銀行。もろもろの作業が山済みになった。

彼は4月の決算と次女の高校卒業を待って6月に移住をすると決めていた。

しかし、私には残っているイベントやディナーショーの契約があり目いっぱい伸ばしてもらった。船の便の都合も考え、引越しの日は6月21日に決めた。引越し作業は約1ヶ月。毎日のように友人が駆けつけてくれた。我が家を借りてくれる人も見つかりこれで安心して我が家を離れることができる。毎日が戦いのように過ぎていく。15年間住み慣れた家は荷物も物も半端ではない。捨てるもの、あげるもの、置いていくもの、持って行く物。

最後の1週間は会社を休んで夫婦で毎日手伝いに来てくれた人もいた。本当にありがたかった。

ちょっとセンチメンタルに最後の夜を過ごし、迎えた朝。応援に駆けつけてくれた友人たちの車を含め、田舎道を数台の車で連なって走る。沿道には近所の人たちが申し合わせたように出ていてくれた。手を振って「がんばれよー。」「いいなあ。」「遊びに行くからなー。」と元気に送ってくれる人やずっと、最後まで泣き続けているおばちゃんたち。「今までありがとー。」何度も、何度も、手を振りながら叫んだ。涙があふれてきた。みんないい人たちだった。

でも、さようなら。静岡県。さようなら。我が家。

私たちは車を船に載せ、その足で両親が待つ空港へ向かった。

空港に着くと思いがけないほどの見送りの人たち。うれしかった。ありがたかった。

涙、涙の別れになった。本当にありがとう。きっと、遊びに来てね。心からそう思った。

今までに無い位強く何度も手を振り続けた。姿が見えなくなるまで手を振った。

・・・6月吉日 夏の始まりだった。


決心の記念写真

♪コーヒーが沸いたら陰口をきかれて 

それでもこの町が一番きれいだわー

とても好きだけどお別れよ さよなら

鳥のさえずりに送られて出て行こう

ろくでなし、ろくでなし、なんてひどい 言い方

パパラパラ パパラパラ パパラパパララパパラ ♪

  越路吹雪「ろくでなし」より抜粋

 

始めてこの歌を歌って涙を流した

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