宮古島ドットコムの連載企画
「宮古島はちゃめちゃ移住計画」



vol.004 3月13日 「父の涙」


私たちは梅雨明けから、引っ越してきたのだが、毎日、茹だる様な暑さにホトホト参っていた。クーラーがない。暑い。

しかし、夕方になると涼しい風が心地よく、4人でベランダに行き星を眺めて夜を過ごした。流れ星がすごい。

75歳を過ぎた両親でさえ口をぽかんと開き流れ星を探している。

ベランダの椅子に座ると、ちょうど真上に天の川が見える。天の川は7月7日に見えるものだと思っていたので毎日見える天の川には本当に感動した。数え切れない星空の下、宮古島に来て本当に良かったと心から思った。

ある日のこと、朝早く「おはようございます。」と、玄関で声がした。

慌てて夫が階段を駆け下りていく。私たちはすでに8時になっていたのにも気づかず眠っていたのである。急いで玄関を開けると

「おはようございます。私が会長の下地です。」

「アッ、おはようございます。」寝ぼけ眼で夫は言った。パジャマ姿で隠れながら夫をそっと呼ぶ。

小さな声で「ねえ、何の会長だって?」「わからん。でも、とにかくお茶をお出しして・・・。」

後で聞いた話だが夫も瞬間、何のことだか飲み込めなかったという。

突然の訪問で4人ともあたふたと身支度を整えて一斉に挨拶に出て行った。

自治会長の訪問だった。「みんながどんな人が越してきたか見に行ってほしい。というので来ました。」「いい人達で良かった。」


第一号の来島客 小泉夫妻と。
伊良部 下地島

一時間ほど話して会長は帰っていった。ご近所のことや村の人たちとの付き合い方、イベントの参加、自治会費など、詳しく教えてくれた。

やっと、ほっとする人に出会った気がした。「いい人だね。会長が気さくな人でよかったね。」誰ともなしに言った。

私たちは彼が帰った後、これは急いで引越しの挨拶に行かなくては・・・。と思い、すぐに静岡から持ってきた緑茶を手に、ご近所にあいさつ回りをした。「大和から来たのか?」「何人で来たのか?」位の質問程度で思ったより簡単にあいさつ回りが済んだ。

「ただいま。」心配していた両親が「何?早かったじゃないか。」と、出迎えた。

「うん。割と簡単に済んじゃった。」「そうか、まずまず良かったよ。挨拶だけは早くしておかなくちゃいけないからな。」

まじめな父は私たちがいつ挨拶に行くのか気にしていたらしい。しかし婿殿が何も言わないので自分たちから切り出してはいけないと、言いたいのを我慢していたと言う。

あっという間に3週間が過ぎていた。明日は両親が静岡に帰る日だ。空港まで見送りに行く。嫁に出てからこんなに長く両親と過ごし、こんなに色々と話し合った事はなかった。小さなこと、大きなこと、これからのこと。自分たちの老後のこと。特に父親と毎日顔をあわせ、食事をともにすることは今までの私には考えられないことだった。厳しく、まじめな父は大の苦手だったからだ。内地にいた時でさえ、実家に帰ってもなるべく父に会わないようにしていた。顔をあわせればまた何か説教されると思うからだった。でも、その父が遠く宮古島まで引越しの手伝いに来てくれたことは、身内の愛の大きさを確かめるには充分であった。

いつも「のほほん」としている母も今度だけは必死で手伝ってくれた。そして、毎日、ガシガシ動いていた私達のオアシスになった。鼻歌を歌い洗濯物をたたむ。独り言を言いながらアルバムを見ている。「お母さん。洗濯物しかしてないじゃないの?」「あら?そう?」

そう言ってまた、洗濯物をしている。たった、2枚か3枚のものを洗濯機に入れてスイッチを押す。「2.3枚でいちいち洗濯機をかけなくてもいいよ。」疲れがたまってきていた私は母ののんびりした行動にぼやいてばかりいた。「洗濯だって大切な仕事だ。」


伊良部 下地島

ある日、父がボソッと言っていたことを忘れない。本当にそうだった。毎日汗をかいて掃除をしていたから、一日に何回も着替えたのだ。心臓の弱い父は医者の薬を最大3週間分持ってきていた。その薬がなくなってしまったのだ。

そんな楽しかった毎日が、今日で終わる。淋しい・・・。

空港の待合室から出てきた両親に、私たちは何度も何度も手を振る。すでに帰ったと思っていた私たちが、まだ帰らずに見送っていた事に気づいた父が、ガラスの向こうで笑いながら泣いていた。泣きながら手を振っていた。はじめてみた父の泣き顔だった。

「また、すぐに遊びに来てね。」「おう!」何十年ぶりに両親と過ごした幸せな日々が終わった。

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